幸せという目印

今、もう本当にすべてを、

「それでいい」って祝福していきたいという感覚が起きています。

 

それは私の、嫌いを拾っていくこと。

 

よく、「幸福は私たちの本性だ」といわれたりしますが、

人が幸せであることは、本来、息をするのと同じぐらい簡単なことなんですよね。

どっちかっていうと、不幸であれているという方がすごい。

もともと、幸せですからね。

目の前の不幸だと嘆いていること、

これは本当に不幸なのかな?って疑ってみたりするといいかもしれませんね。

ものの見方の、天変地異ですよね(笑)

別の意味が見えてくるかもしれない。

 

その人にとっての幸せっていうのは、形の上では誰にもわからないですよね。

ある意味では、その人が一番知らないかもしれませんね。

それでも何か、私たちは自然と幸せを探すように促されている。

 

「幸せの青い鳥」という、

パンくずを追いかけて青い鳥を探していったら、実はその鳥はすでに家の中にいたという寓話は、

幸せの在りかの例え話として、よく耳にするお話です。

いつだって「今」、すでに幸せなんですよ、と。

「青い鳥がおらん!」ていう思い込みが消えたら、もう幸せなんですよね(笑)

でもだからといって、そのパンくずを追いかける道程は無駄なのか、

不幸なのかといったら、そうでもないと思います。

 

いろんなマスターたちが、

「教えはたくさんある。しかし誰が、それを受け取るというのだ」

と伝えています。

 

私は最大の教えは、人生というストーリーだと思う。

人は人生を怖いものだとか敵だというふうに見て、

それをしっかり見て、味わい、体験することを避けてしまいがちだけれど、

一体どれほど、土壌を肥やすためにいつも最適なことが起きているか。

 

こちらの体験の方が、あちらの体験より良いとか悪いはないけれど、

100万冊の聖典を読むより、

大恋愛や大失恋、子供を産んだり育てたりといった経験が、

場合によっては、ぐぐぐっとハートやマインドが成熟する機会になるかもしれません。

「自分」なんか完全に持っていかれちゃいますよね?

誰かを愛するということは、とても恐ろしいことだと、

何かがどこかで知っている。

ズタズタに傷ついてしまうかもしれない。

全然思い通りにならず、簡単に見捨てられるかもしれない。

 

それでもそれが、あなたの本質の奥底からの愛ならば、

願わずにはいられない。

「この人がどうぞ、幸せでありますように」

 

それは、知識では決して体感できない感覚でしょう。

そのとき大変な幸福感が、外側からもらうのではなく、内面から溢れてやまないという感覚。

ひとつのもの、ひとりの人への愛が、すべてに広がる感覚。

自分自身をも、どこまでも自由にする感覚。

 

幸せが何かって、誰にも押し付けることはできないけど、

なぜ人間としていろんなことを体験する機会を見ているのか、

なぜ人は条件付きの愛に苦しみ、無条件の愛を探すのかって、

ただこの感覚を、人として味わい、思い出したいだけなんじゃないかと思ったりするのです。

 

無条件の愛の通り道になること。

最も欲しいものを、惜しみなく出せばいい。

 

本当はそれは、特定の人が対象でなければいけないわけではないんですよね。

目の前の、割り箸だったり、入れ歯だったり、ゴム手袋だったり、

ハゲ課長や小生意気な部下だったり・・・。

そろいにそろって、例えがなんですけどね(笑)

なんでもいい。

ただ何かの対象をきっかけにハートが開き、

無限の愛が常にだだ漏れに降り注いでいたことに気づくゲートが開く。

 

実は、私が勧めている「目の前の人が幸せでありますように」という呪文に、

アレルギー反応を示される方がちょろちょろとおられ、

「そうなのか!」と、私自身がすごくびっくりしたんです。

これはだから、私もこういう活動をさせていただくことで、

初めて気づかせてもらうことがたくさんあって。

 

うちの家では、これがあまりにも当たり前になっていて、

そこに束縛はないし、みんなが幸せに暮らしています。

人は、出しているものを受け取っているんですよね。

今、この瞬間。

本当に単純に。

 

だから気が向かれたら、そう思ってみるぐらい1円もかからないし、

それこそ惜しまず、目の前の入れ歯に、

「この入れ歯が幸せでありますように」

って、よかったら思ってみてください。

 

幸せ感度が、知らない間に上がっているかもしれません。

 

 

この投稿へのコメント

  1. ぼんちゃん said on 2017年7月15日 at 8:17 AM

    今朝ちょっとやってみました。息子二人 食卓にて ゲームの会話。どうやっても入れない会話。そんなときザワザワしてしまうのです。こんな事にも見捨てられ不安。

    心の声(かいがいしく食事の支度を整えるだけなんて これではまるで お手伝いさんではないか?きっと 話に入れないで 緊張してるって思われるんじゃないか)←まじで これやってしまってます。

    そう考え始めたとき やってみました。
    「そう考えたとき 思考が全部なかったら どんな感じ?」
    と。
    そしたら 少し 楽になってました。
    一瞬でしたが。
    そして そうすると 自分のやっていることが見えてくる
    新聞見て あーだこーだと 独り言のように言う
    そうすると 興味があれば ちゃんと聞いていて
    口をはさんでくる

    あっ これでいいんだ
    そう思って 
    頑張って飛ばしてしまうと
    超意識しちゃってる自分がいて
    子供が こちらに興味が向くように コントロールしようとしてしまう

    また
    その思考が今全部なかったらどんな感じ?
    とやってみる

    そうすると また ふっと楽になる

    うまくいくと掴む そして 手放す 掴む 手放す
    の繰り返しです

    手放せない時もあるけれど
    続けてみます

    • りんご said on 2017年7月15日 at 4:34 PM

      ぜひ、続けてみてください ^ ^
      日常生活が瞑想になります。

      もうね〜、考えっていうのは、びっくりおったまげるようなことがどんどん湧いてきますからね〜。
      それ、ただ流れてるだけなんですね。

      その思考と思考の間の一瞬に気づかれたのは、とても大きなことです。
      その隙間が、自由です。
      その感覚をよく味わってください。
      本当はいつでもそこに帰れます。

      完璧でなくて大丈夫ですからね。
      どうぞ気楽に。

  2. ぼんちゃん said on 2017年7月15日 at 6:39 AM

    見捨てられる恐怖も その思考がなかったら 自分を守ろうとしたり 大きく見せようとしたり 隠したりする必要がないから 楽ですよね。自動的に出るので 意識してみます。思考を見るのですね。頭に沸いたものを ちょっと眺めて見て 書き出してみたいと思います。

    「私はこうされた」という考えは ほじくっていって これかな?って思うもので その時には 反応だけが出てしまうのです。隠す 取り繕う 守るなど。

  3. ぼんちゃん said on 2017年7月14日 at 8:05 AM

    りんごちゃん お返事ありがとうございます。よくわからなくて ず~~っと考えていました。外側に私を満たせるものは何もないんですね。そうすると 私の「こうされたから」みたいな考えは 私の作り出した 防衛機制で そこを信じるから 同じような出来事ばかりがやってくるのですね。私以外に私を責める人は誰もいないのですね。なのに 私が責めていたとは・・・・・。ハートを意識してみたいです。ハートはもう一人の私?宇宙?神?いまは「私はだれか?」と 問うても「え?何言ってんの?私は私じゃん」みたいに よくわかりませんが ハートは どんな感じ?と 意識してみたいと思います。 

    • りんご said on 2017年7月14日 at 6:32 PM

      ぼんちゃん、こんにちは。
      「どういう意味なんだろう?」「こういうこと?」「ああいうこと?」「私がこうされた」「私は私じゃん」
      と、ばーっと流れる思考を眺めてみてください。
      思考を観るんです。
      今に戻って。
      決して難しくありません。
      できなくて巻き込まれたり、落ち込んだりしても、ご自分を責める必要はありません。
      気づいたらそっと、もう一度眺めてみてください。

      その思考が、今、全部なかったら、どんな感じでしょうか?
      「私はこうされた」という考えを今、もし忘れたら、どんな感じですか?

      ふたりの私がいるわけではありません。
      考えを観じて、様々な感情に優劣をつけずにあるがままに踊らせているとき、
      世界の中の被害者の私は、世界を見ている側に変化していきます。

  4. くすのきのしずく said on 2017年7月13日 at 12:55 PM

    こんにちは。去年から怒りや恐怖の感情が爆発したように出ています。どうにかなってしまいそうなので、ハートに手を当てて、大丈夫、安心して。と言い続けました。そして恐怖を仕掛けたであろう何人かの人の目線になり、幸せでありますようにと思い続けました。恐怖を受け止めたら何もない日常が感謝であふれていることに気が付きました。少しづつ少しづつ癒やされていくはずです。リンゴちゃんのお返事がものすごく力になりました。目の前に起きていることは絶妙なタイミングで起きているようなそれをもう一人の自分が感じているような漠然としていますが。
    これでいいのだ、目の前の人が幸せでありますように。それも考えといいながら思考生活に穴をあけています。
    ありがとうございます。

    • りんご said on 2017年7月13日 at 1:20 PM

      くすのきのしずくさん、こんにちは ^ ^
      怒りや恐怖の感情が噴出するとき、なんともいえず苦しいですよね。
      でもみんな、そのおかげで終わっていっています。
      怒りや恐怖という感情の本質は、実は愛です。

      くすのきのしずくさんが、あらゆるものをゆるせる場であるという真実の経験は、
      何よりもあなた自身を解放し、癒します。
      人をゆるすことは、どこまでもどこまでも、結局は自分を救い、癒します。
      むしろ自分をゆるし、癒すために、相手がいたようなものだと気づかれていくと思います。

      ご報告お聞きして、とてもうれしいです。
      こちらこそ、ありがとうございます。

  5. ぼんちゃん said on 2017年7月12日 at 4:11 AM

    追伸 相手の幸せを願うよりも 自分の保身を優先にしてしまう。こんなとき 相手の幸せを願えたら この恐怖もなくなるのかな?

    • りんご said on 2017年7月12日 at 11:10 AM

      もちろん、無くなっていくと思いますよ。
      分離感こそがストレスですから。
      でも今は保身を優先する自分がある。それはそれでOKじゃないでしょうか?

      ただ、ぼんちゃんさんが本気でこれから幸せに生きたい!と願われるなら、
      「被害者」というメガネはきっぱり捨てなければいけません。
      あなたは体でもなければ、「末っ子」といったラベルでもありません。
      「自分は被害者」という想念と一体化している限り、どこに行っても世界は加害者だらけに見えてしまいます。
      その加害者は、ぼんちゃんさんの信じている想念が生み出しているんです。
      「被害者」という感覚に執着していることに気づかなければいけません。

      また、ぼんちゃんさんに罪などひとかけらもありません。
      それもまたただの考えです。
      自分以外に、自分を責めるものなど何もありません。

      できれば、ハートを意識することを始めてみてください。
      胸のあたりにハートの入り口があります。
      意識するだけでも感性が開かれてきます。
      そちらの方が真我です。
      ハートに「私は誰か?」とたずね、帰ってくる感覚を味わってみてください。
      外側にあなたを満たせるものはありません。
      ハートの静けさ、幸福感、安心感の中で、罪悪感や恐怖感が癒されていき、外側に振り回されるのではなく、その世界を見ている「私」に焦点が絞られてくるでしょう。

  6. ぼんちゃん said on 2017年7月12日 at 4:07 AM

    目の前のものに 幸せでありますように って 呟いてみたいのですが 昨日も 恐怖に捕まりそれどころではなくなってしまいました。昨日の恐怖は よく出てくる恐怖で 食卓の恐怖です。複数の人の中の恐怖です。何人かで座ってお茶を飲んだりするだけなのに 緊張が走ります。末っ子で ほぼ発言権のない私 誰も私をあてにするわけでもなく 相手にするわけでもなく いつも どーせ私は 相手にされない。だから 二人で話しているときは 私しかいないから 安心して喋れるのに 三人以上になると 見捨てられ不安が ガーッと 出てきて その自分に耐えられなくて 人に言われる前に 自分にあんたがダメだからしょうがないと言ってきた。見捨てられ恐怖半端ない。見捨てられ恐怖から なんとかしようとした策が 自責。昨日は そんな自分の中から 苦しい 嫌だ やめて という声がわずかに聞こえてきたけれど まだ 見捨てられ恐怖をとことん感じられずに 逃げてしまう。

  7. 東京日和 said on 2017年7月11日 at 10:02 PM

    りんごちゃん、さっそく返信ありがとうございます。
    昨日の今日でなんですが、アレルギーなくなったみたいです(笑)
    今朝から見事に電車で職場で出会う人に心の中で「幸せでありますように」を連発しています。
    マイルドにする必要もないみたいです(笑)

    実は金曜に職場でガツンと言ってしまいまして、これは私が筋が通っっていると思いつつどんどん罪悪感が募り土日は悶々としてしまいました(苦)
    最終的には「無知のまま、無明の人生を何度でも送ればいいさ、どこまでも付き合うよー!」
    と自分に言ったらどこかほっとして楽になりました。
    それでかな、抵抗感がなくなったの。

    無条件の愛が込められるところまではいってなくて、ホントに呪文のように唱えてるだけなんです
    けど、でも確実に自分の反応が変わりますね、一瞬で。
    人にだけでなく目にするものに次々言ってると、世界の印象がどんどん変わっていきます。

    もちろんいろんな事があって気持ちも変わるでしょうが、単純に気持ちに関係なく唱えていきたいなと
    思っています。
    りんごちゃん、ありがとうございました♪

    • りんご said on 2017年7月11日 at 11:47 PM

      わぁ〜、そうですか(笑)
      東京日和さん、嫌いを拾っていっておられる。

      私もですね、最近、「自由でなくてもええわー!」とか思ったりしています。
      でも残念ながら、余計自由な感覚を覚えてしまいます。

      無条件の愛って、込められないんですよ。
      なんか最初、「幸せでありますように」とか「ありがとう」とかって念ずるの、
      「個人」にとっては嫌だったりするじゃないですか。
      で、その「個人」が無くなったところに、自然と無条件の愛が現れちゃいます ^ ^

      こちらこそ、素敵なご報告をありがとうございました。

  8. 東京日和 said on 2017年7月10日 at 9:47 PM

    りんごちゃん、こんばんは。
    「目の前の人が幸せでありますように」アレルギーの一人です。(笑)

    何でかなってじっくり見てみると、そこには痛みがあると思うんです。
    嫌いな人や仕事、ものごとなどはその痛みを刺激するのかなって。
    しつこい感情が湧いてしまう時「そう言っているのは誰なのか」って見てみると
    過去のストーリーを抱えた「私」が必ずいて、頼りなげで何というか気の毒な感じで(笑)

    せめて私だけでも絶対的にそばにいて「どこまでも付き合うよ」と言ってあげたい。
    そんな感じなんです。

    • りんご said on 2017年7月10日 at 10:07 PM

      東京日和さん、こんばんは ^ ^
      アレルギーを刺激してごめんなさい(笑)
      なるほど、確かにそういう感じ、私もわかります。
      そのとき起きていることに、そうやって寄り添う方が自然かもしれないですね。

      私はこの言葉でとてもハートが開く体験をしたのですが、今日、本を読んでいたら、別の色んな方が、この周波数のことを、「感謝」という言葉で伝えてるんだなって気づいて、ああ〜とひとりで納得しました。
      「幸せでありますように」より、感謝の方がマイルドだなぁと。

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